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伏甲 1

シードラゴンの鱗衣をまとう兄の幻を見せられた時、ポリュデウケースは、はっきりと自分の敗北を知った。
(カストールの幻を見ただけで、ここまで動揺するとは……)
それでも心の何処かで嬉しいと思う自分に、彼は自嘲の笑みを浮かべてしまう。
(この時代は懐かしい顔ぶれが多すぎる……)
彼は壁づたいに立ち上がる。
暗黒の双児宮に仄かな青白い光が灯った。
(まったく、面倒な光だ……)
彼は左手を見る。何がこの身に起こっているのか。
光はしばらくして消え、部屋の中に闇が広がる。
(サガの意識を見つけられないということは、あやつは消滅したのか?)
自分でそう考えていながら、本当に消えたとは彼も思っていない。
(何を考えている……)
しかし、意識を感じられないということは今まで有り得なかった為、今度は自分がサガを深層意識から見つけださなくてはならない。
その時、闇の中に金色の光が舞い降りる気配を感じた。
(黄金聖闘士が来た様だな)
ならば仲間を囮にしてサガを引きずり出し、完全に抹殺してもいいし、自分がこの世界から離れる為に利用しても良い。
(来たのは蟹座と山羊座か……。 山羊座は良いとして、蟹座は闇に対して耐性がある。
今度こそ逃げられない様に、強固な結界を張っておくか)
彼はゆっくりとした足どりで、双児宮から出ていった。

実はこの時、黒の聖域内では別の宮で小さな異変が起こった。
だが、彼は無視することにした。
その異変があまりにもささやかだったし、全神経を二人の黄金聖闘士たちに向けていた為である。
(闇に満ちている妖気に、捕らえた黄金聖闘士たちが動けるわけがない)
アテナの聖闘士たちを動けなくする方法は、既に聖域の創設時に作り上げた。
それは人間である聖闘士が自分の力を過信した時、アテナの身を守る為に必要だったからだ。
彼の脳裏に過去が断片的に甦る。思い出したくもない記憶だったが、逆に今の自分の行動を支えてくれている。
全ての命を慈しむ大地の女神に罪はないが、神々の思惑の犠牲となった妹たちもまた罪は無かった。
(所詮、人は変わってしまう……)
英雄と呼ばれ人望の厚かった人物も、歳を重ねるうちにその心根が歪む姿を彼は見てきた。
あの残酷な告白を聞き、母神ネメシスがあげた悲鳴。
『絶対に許さない……』
愛情深い女神の怒りと悲しみは永遠に続く。
そう、事件を起こした人間が既に冥府に捕らえられていようとも……。
(クリュタイムネストラー。ヘレネ……)
長い間、兄の名前と共に口に出す事の無かった妹たちの名。
黄金聖闘士となり地上の平和を守る任務についた自分を、誰よりも喜んでくれた妹たち。
だが、美しさに秀でた二人の妹は、後に神々に利用された。

その事実を知った時、彼の中で何かが崩壊した。

最後に残ったのは、敬愛する女神との約束。
それは昔、親友を傷つけて自ら心を傷つけ続けた女神が自分に告げた一言。
『ポリュデウケース。私もパラスのところへ行きたい……』
それが海底神殿へ行きたいという単純な理由でない事は判っていた。
その時はむしろ聞かなかった事にしようと思っていた。
何故なら聖闘士として、その願いを叶える事は出来なかったからである。
だが、アテナがレーテーの水を飲んだ事をエリスより知らされた時、彼は決意した。 自分が兄と共に守り続けた女神が何もかもを忘れてしまうのなら、その彼女が最後に自分に頼んだ事を必ず成し遂げようと……。
それは聖域の創設に関わった自分の、最後の任務に相応しいと思ったからである。