パンドラは暗闇の中で一人の少年を見つける。彼はうずくまって、声を殺して泣いていた。 (ハーデス!) 彼女は急いで駆け寄ると、背後から幼い弟の事を力一杯抱きしめた。
「ハーデス。私がいるではないか。 だから泣くな」 すると彼は涙を拭おうともせずに、彼女の顔を見る。} 『姉上……』 「其方の奇麗な目が、涙で赤くなっておるぞ」
パンドラは弟の額に自分の額を付けた。 彼女はどういうわけだか、ここが何処なのかが判った。 周囲の空間は闇しかないというのに……。 「ハーデス。
今にポセイドンやゼウスが、この父の腹から私たちを助け出してくれる。 それを信じて、時が来るのを待とう」 しかし、ハーデスは疑わしそうにパンドラの事を見る。
『姉上、本当にポセイドンやゼウスが助けに来るとお思いか?』 弟の疑問に彼女の方が驚いてしまった。 「何の為に母上がポセイドンの代わりに子馬を父に与え、ゼウスの代わりに石を飲ませたと思う。
彼らは絶対に助けに来てくれる」 しかし、ハーデスは首を横に振った。 『多分、ポセイドンもゼウスも姉上たちを助ける為に来るかもしれないが、余の事は……』
次の言葉を聞いた時、パンドラは思わず大声を出してしまう。 「何を言うのだ。 其方を見捨てるなど、ポセイドンやゼウスがするわけが無い。 其方たちは兄弟なのだぞ」
だが生まれながらに死の力を持つ弟の側に、命ある存在は長くはいられない。 豊穣を司る事により、植物の自然界の流れの様に自分は死と再生の力を持つが、他の神々には彼の存在は非常に危険と言えた。
オリュンポスの神々は不死である以上影響はない筈だが、ハーデスは絶対的な死の王である。 どちらかのバランスが崩れた時に、全てが終わるという可能性は拭えない。
そして自分以外に彼の影響を受けない神がいるとしたら、それは女神ヘカテや夜の女神ニュクスのような太古より世界に存在した神々しか思いつかなかった。 彼女たちやその子供たちは古来より存在し、未来にも存在しつづける。
そして何よりも神族の系統が違う為なのか、ハーデスの力の影響を受けない。 (女神ニュクスの子等を味方に付けねば、ハーデスの身が危ない……)
パンドラは素早く候補者を考えた。 弟には兄弟を信じろといいながら、心の何処かで悲劇を予感していたのである。 (確か、女神ニュクスにはタナトスとヒュプノスという息子たちがいた筈……)
その名を思い出した時、パンドラの腕の中の少年の姿がいきなり消える。 「ハーデス!」 パンドラは慌てて周囲を見回した。 しかし、大切な少年の姿は何処にもない。
そして彼女の周りの風景は、暗黒から夜の世界へと変わる。 彼女は夜空に星の輝く草原へやって来たのだ。
「ハーデス! 何処にいるのだ」
自分の兄弟を信じきれない少年。 彼を孤独の中に居させたくはないパンドラは、弟の姿を求めて花畑を走った。 (早くあの子に、私はずっと味方だと言ってやらねば……)
その時、誰かがパンドラの服の裾を引っ張った。 「其方は……」 薄暗い世界の中で、自分と同じ黒い髪の少女がパンドラに笑顔を見せている。 目の色であの時の少女であることが判る。
そしてその身体からは、淡い光が零れている。 彼女は遠くの方を指さしていた。 つられてパンドラがそちらの方を向いた時、少女の姿は消えた。
(あの子はいったい……) そして少女が指さした方から、誰か女性がこちらに向かってやってきたのだった。 |