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決断 1

その灰色の世界には、海皇の鱗衣をまとったジュリアンだけがいた。
彼は自分の姿に驚いたが、それと同時に自分の中にもう一人の声を聞く。
『懐かしいか?』
威厳に満ちた男の声。 ジュリアンは、すぐにその声の主の正体に気付く。
「……懐かしい気はしますが、海皇様。この鎧は何なのですか?」
『これは私の鱗衣だ。 これで海の全ては、お前の思うがままだ。
その力で再び世界を支配してみるか?』
ジュリアンは驚いて、手に持っている三叉の戟(ほこ)を見る。
そしてその後、可笑しそうに笑った。
『何が可笑しいのだ?』
ポセイドンは、やや不機嫌そうな声を出す。
「海皇様。 世界の全てを望まなくても、私には友人がいて自分にしか出来ない使命を持っています。
これ以上の望みはありません。
願わくば、もう少しだけこの穏やかな時間が続くと良いと思っています」
そう言ってジュリアンはその場に座り込む。 鱗衣をまとっているので、やや座りにくいといえば座りにくいのだが……。
「それよりも、あの二人のお嬢さんは誰ですか?
随分、気にかけておいでのようだ」
自分の問いに対して、自分の中にいる神が動揺しているのが判るというのは、何とも奇妙な感覚だと、彼は思う。
(心の中で会話すれば良いのかな?)
そう考えた瞬間、何かが自分の背から離れた。
音こそしなかったが、感覚的にそれが判る。
ジュリアンが振り向くと、そこには朧げな人影。
『……』
「海皇様、どうかしましたか?」
『……片方は、私の最愛の孫娘だ……』
「孫娘?」
海妃アムピトリーテ以外にも多くの恋人がいた神なので、子や孫が一人や二人いても不思議ではないが、孫娘と言われても直ぐに誰だか思い出せない。
しかも最愛とまで言われるということは、かなり大事な存在と考えて良い。
『お前は一度見た筈だ。 我が孫娘が友の剣によって倒れる姿を……』
その苦渋に満ちた言葉で、ジュリアンはある場面を思い出した。
(あの夢の場面か……)
許さないと叫んだ女性の声は、今も耳に残っている。
一人の少女の死によって、大勢の人間が滅びへと向かう舞台。
それは自分が見た演劇の記憶ではなく、神々の時代に起こった出来事だったのだ。
『もう終わった事だというのに、我が妻もテティスも捕らわれつづけている……』
ジュリアンはポセイドンの言葉に不快感を示した。
「最愛の者を亡くしたという悲しみは、消えて無くなる事はありません」
『……』
「彼女の叫びは、今でも覚えています。
何故、彼女は殺されなければならなかったのですか?」
『依代如きに教える必要はない』
するとジュリアンは、自分の持っていた三叉の戟をポセイドンに向ける。
「友人が巻き込まれているのです。 私も事態を見物しているわけにはいきません。
彼の宿命が彼を滅ぼすのを、回避したい」
ジュリアンは目を逸らす事無く、まっすぐポセイドンを見る。
『……孫娘と同じ事を言うか……』
「えっ?」
『パラスもまた、同じ事を言った。
アテナの宿命がアテナ自身を滅ぼすのを、何とか回避したいと……。
その為なら、自分が犠牲になってもいいと』
そしてポセイドンはゆっくりと三叉の戟に手を伸ばした。


老婦人の持ってきたお茶を口にしながら、アイザックは眠っているジュリアンの方を見た。
先程まで彼は老婦人と話をしていた。
何故、自分たちに対してそこまで親切にしてくれるのか。
すると彼女は微笑みながら、一言告げた。 私の父も祖父も漁師でしたと……。
この聖域に来たのは、若い頃に色々な事情で巫女役に選ばれた為らしい。
そんな事情ゆえ、ポセイドンへの信仰はアテナへの信仰とはまったく別の次元で彼女の中に存在し続けていたのである。
だからこうして黄金聖闘士の依頼で彼ら海将軍たちの世話が出来るのは、それこそ素晴らしい贈り物に思えたと、彼女は笑って言った。
(なるほど……)
老婦人は、どちらの神に対しても誠実であろうとしている。
彼女にとっては、どちらかを棄てる方が両方の神への裏切りなのだ。
誰にも理解されなくても、それが彼女なりの信仰なのだろう。
ふと彼はジュリアンから海の気配を感じ取った。
「ポセイドン様」
直ぐさま片膝をついて礼をする。
『クラーケン。神殿へ戻るぞ』
「判りました」
アイザックは表情を変えずに、部屋を出る。
老婦人は礼をしながら二人を見送った。