その灰色の世界には、海皇の鱗衣をまとったジュリアンだけがいた。 彼は自分の姿に驚いたが、それと同時に自分の中にもう一人の声を聞く。 『懐かしいか?』
威厳に満ちた男の声。 ジュリアンは、すぐにその声の主の正体に気付く。 「……懐かしい気はしますが、海皇様。この鎧は何なのですか?」
『これは私の鱗衣だ。 これで海の全ては、お前の思うがままだ。 その力で再び世界を支配してみるか?』 ジュリアンは驚いて、手に持っている三叉の戟(ほこ)を見る。
そしてその後、可笑しそうに笑った。 『何が可笑しいのだ?』 ポセイドンは、やや不機嫌そうな声を出す。 「海皇様。 世界の全てを望まなくても、私には友人がいて自分にしか出来ない使命を持っています。
これ以上の望みはありません。 願わくば、もう少しだけこの穏やかな時間が続くと良いと思っています」 そう言ってジュリアンはその場に座り込む。
鱗衣をまとっているので、やや座りにくいといえば座りにくいのだが……。 「それよりも、あの二人のお嬢さんは誰ですか? 随分、気にかけておいでのようだ」
自分の問いに対して、自分の中にいる神が動揺しているのが判るというのは、何とも奇妙な感覚だと、彼は思う。 (心の中で会話すれば良いのかな?)
そう考えた瞬間、何かが自分の背から離れた。 音こそしなかったが、感覚的にそれが判る。 ジュリアンが振り向くと、そこには朧げな人影。 『……』
「海皇様、どうかしましたか?」 『……片方は、私の最愛の孫娘だ……』 「孫娘?」 海妃アムピトリーテ以外にも多くの恋人がいた神なので、子や孫が一人や二人いても不思議ではないが、孫娘と言われても直ぐに誰だか思い出せない。
しかも最愛とまで言われるということは、かなり大事な存在と考えて良い。 『お前は一度見た筈だ。 我が孫娘が友の剣によって倒れる姿を……』 その苦渋に満ちた言葉で、ジュリアンはある場面を思い出した。
(あの夢の場面か……) 許さないと叫んだ女性の声は、今も耳に残っている。 一人の少女の死によって、大勢の人間が滅びへと向かう舞台。 それは自分が見た演劇の記憶ではなく、神々の時代に起こった出来事だったのだ。
『もう終わった事だというのに、我が妻もテティスも捕らわれつづけている……』 ジュリアンはポセイドンの言葉に不快感を示した。 「最愛の者を亡くしたという悲しみは、消えて無くなる事はありません」
『……』 「彼女の叫びは、今でも覚えています。 何故、彼女は殺されなければならなかったのですか?」 『依代如きに教える必要はない』
するとジュリアンは、自分の持っていた三叉の戟をポセイドンに向ける。 「友人が巻き込まれているのです。 私も事態を見物しているわけにはいきません。
彼の宿命が彼を滅ぼすのを、回避したい」 ジュリアンは目を逸らす事無く、まっすぐポセイドンを見る。 『……孫娘と同じ事を言うか……』 「えっ?」
『パラスもまた、同じ事を言った。 アテナの宿命がアテナ自身を滅ぼすのを、何とか回避したいと……。 その為なら、自分が犠牲になってもいいと』
そしてポセイドンはゆっくりと三叉の戟に手を伸ばした。 |