それは密やかに広がり、恐ろしいまでの力を人間達の前に示す。 |
「……」 女神ヘカテの神殿から聖域に戻ってきたシオンたちは、なんとなく聖域の様子が騒がしい事に気が付いた。 「紫龍。何があったんじゃ」 留守番をさせていた弟子に童虎は尋ねる。 すると紫龍は大したことは起こっていないと答えた。 しかし、どう見ても何か言い淀んでいる。 「どんな些細なことでも良い。 何も知らねば、ワシもシオンも対処ができん」 師匠の言葉に紫龍は何かを覚悟したらしく、聖域で起こっている出来事を口にしたのだった。 「噂の出所が掴めないのですが、女神アテナが選ばれた侍女達を連れて天上界へ戻られるという話が広まっているのです」 その話は短時間で聖域中を駆けめぐったので、明らかに誰かが意図的に流したのだと思えた。 聖域の人間達は誰もが女神アテナに対して罪の意識を持っていたのである。 本当かもしれないと言う考えを、彼らはぬぐい去ることが出来なかった。 一部の者達は既に自らを責めて落ち着き失っているという報告があるのだ。 「敵の策略か、非難の神であるモーモスが力をふるったのかもしれん」 相手が何処かの神に仕える者ならば闘う事が出来たが、後者であった場合はやっかいである。 女神ニュクスの子らは、人間の負の意識に関わる事が多い。 どうしても捨てきれない物であるがゆえに、刺激されると簡単に人間は取り込まれてしまうのだ。 「聖域中に、夜の女神の子らが出歩いているとでも言っておかねばならんな」 シオンが聖域中に命令を下すべく、社殿へと向かった。 「老師……」 紫龍はギガントマキアを闘った人物とは思えないほど動揺していた。 「どうしたんじゃ」 「春麗は大丈夫でしょうか」 このまま戻ってこないのでは……。 彼の表情は、そう言っている。 (……) しかし、こればかりは童虎自身も誰かに尋ねたいくらいである。 だからといって、答えてくれる者はいない。 「待つしかあるまい」 長い時を生きてきた闘士は、そう言うしかなかった。 |
社殿内部を影が走る。 (来たな) カミュは席を立った。 絵梨衣は未だに眠り続けている。 (……) そして気配はドアの前で止まった。 「一歩でも入れば容赦はしない。 その覚悟はあるか」 相手は動かなかった。 カミュは言葉を続ける。 「この子は邪神の依代として選ばれた過去を持つ者なれど、既に聖域の監視下にいる。 そして我が弟子であるキグナスの聖闘士が専属に付いている。 それを覆してまで少女の命を狙うならば、このカミュが直々に相手をしよう」 邪神エリスの依代を滅ぼすのは、聖域にとって悲願だった時代もあったのだろう。 しかし、女神アテナがそれを望まないのであれば、聖域の人間は悲願など棄てるべきである。 それ以上に、正体の分からない者たちに聖域が長い間抱えていた邪神への怒りを利用されるわけにはいかない。 今の段階で絵梨衣が傷つけられれば、女神アテナの聖域に対する信頼は地に堕ちるからだ。 その緊迫した空気は、どれくらい続いただろうか。 カミュが先制攻撃を仕掛けようとした瞬間、相手の気配が消える。 しかし、彼は慌てて外へ出るようなことはしなかった。 (……) 相手には既に強力な追っ手が差し向けられている。 向こうが聖域を脱出できる可能性は、ほとんどゼロに近かった。 |