早急に処理をしなくてはならない書類を抱えて、天英星・バルロンのルネは冥界から地上へとやって来た。 時間的には夜中ではあったが、ハインシュタイン城に行ってみると厨房へと続く裏口から灯が漏れている。 (こんな時間に使用人たちが起きているのか?) しかし、近づいてみても人の気配が感じられない。 (誰も居ないのか??) 何よりも仲間の気配を感じないのが不思議だった。 彼は何かあったのではと思い、ゆっくりと裏口のドアを開ける。 しかし、中には誰も居なかった。 (おかしい!) 夜中にドアが開けっ放しと言うのも不用心だし、何よりも自分の行動を察知した仲間が様子を見に来ないことも異常である。 ルネは慎重に城の中へと入った。 こんな事なら冥衣を身にまとっておくべきだったと後悔するが、基本的に城の中にまで冥界の気を撒き散らすのは避けるよう命じられている。 彼は覚悟を決めた。 周囲を警戒しながら、城の奥へと進む。 妙に静かな城内。 人の気配が感じられない。 (何があったんだ?) 不意に背後で何かが動いたような気がした。 「!」 振り返ってみると、暗い廊下の向こうで何かが光った。 (誰か居るのか!) 彼は光の正体を確認するべく、廊下を静かに素早く移動する。 そして自分の目で確認したそれは、異様なものであった。 |
蜻蛉(エフェメラ)の冥衣。 その表現がぴったりなのだが、そもそも冥衣にそれがあったという記憶がない。 (これはいったい……) 黒い蜻蛉は音もなく空中を浮遊しながら移動をしている。 彼は正体を見極めるべく、その後を追った。 そしてそれがある部屋へとドアを開けずに入った時、ルネは自分が見ていたものが実態を伴っていないのだと気がついた。 (この部屋には何があるんだ!) 彼は勢い良くドアを開け、部屋に入る。 しかし、中に黒い蜻蛉の姿は何処にも無かった。 部屋の窓辺に置かれたベッドには見覚えの無い女性がいる。 (誰だ?) 黒い幻影の正体が気になるルネは、警戒しながらも女性に近づく。 その瞬間、彼は敵意を感じた。 目の前で、二本の鎖が舞う。 「ルネ。早く出ろ!」 いきなり仲間に腕をつかまれ、廊下へと引っ張られる。 この時ようやっとルネは、自分が音のある世界へと戻ってきたのを察した。 「ジュネさんをどうするつもりだ!」 怒鳴り声が廊下にも響く。 その声は、バルロンの冥闘士にとって最も会いたくない聖闘士のものであった。 |
「……ルネには災難だったかもしれないが、今のアンドロメダにはハーデス様が力を貸している。 向こうの窮地には手をさしのべなくてはならない」
ラダマンティスはルネの持ってきた書類を見ながらアンドロメダの聖闘士がいる理由を簡潔に説明する。 「では、あの蜻蛉(エフェメラ)の形をしたものは何ですか?」 「……分からん」 この簡潔な返事に、ルネは逆に驚いてしまった。 「えっ?」 「城にいる冥闘士たちの前に一度は現れて、あの部屋に導くのだ。 何らかの意図があるように思えるのだが、それが何なのか見当がつかん」 「ミューの悪戯ではないのですか!」 ルネの失礼な発言にラダマンティスは苦笑いをする。 「それは最初に俺も確認をした」 ハインシュタイン城にいる冥闘士たちは、殆どが同じことを考えていたようだった。 |
冥界へ戻ったルネは地上での出来事を自分の上司に報告する。 ワイバーンの冥闘士とその部下たちが居るのだからパンドラに害はないだろうが、不可解なことには違いない。
一応、上司に報告しておこうと彼は思ったのだ。 ルネが語り終えると、今まで書類の方を見ていたミーノスが彼のほうを向く。 「愉快な体験をしましたね」 「愉快ではありません……」 自分の災難を楽しまれて、ルネはどっと疲れを感じた。 グリフォンの冥闘士は再び書類を見始める。 「たぶん、ルネたちは試されたのでしょう。 そもそも女の聖闘士相手に冥闘士たちが一夜限りの恋を実行出来るとは思いませんが……。 とにかくアンドロメダ達が聖域に戻るまで関わらない方が無難でしょう」 上司の言葉にルネは何のことかと首を傾げた。 「一夜限りの恋……ですか?」 「蜻蛉(カゲロウ)の恋は一夜限りです。その恋に殉じるのならハーデス様からお褒めの言葉がいただけるかもしれませんよ」 それでは蜻蛉(エフェメラ)の形をした冥衣は、冥界の神が作り上げた幻だったのだろうか。 ルネは心にモヤモヤしたモノを感じながら部屋を出たのだった。 |